2009年3月28日土曜日

この時期

京都銭湯コレクション2009が終わった。

さぁ何が出来たのだろうか?
俺の役割は本当にあったのだろうか?

営業としての能力を期待され、営業で協賛を確保することが今回の至上命題であったはずだ。
それに関しては、ことごとく失敗した。
というか、今までの自分の人生にないくらいの失敗だった。

だって、協賛企業は俺の分担で0だったからだ。

自分が期待されていたことを全くこなせなかったことに、でも不思議ながら腹は立たなかった。
でも腹が立たない自分には腹が立った。

イベントが終わった反省会で、会計処理が一通り済み、一人あたりの負担額が明示された時、
リーダーが俺たちに問いかけた一言
「ほんとにこれでいいの?」

この言葉の中には、どれだけの意味がこめられていたんだろうか?
決して批判とかではない。決して誰かを責めている訳でもない。でも、予算というものに対しての個人個人の意識の低さを彼は嘆いていたのではないかと、俺はそう感じた。
楽しかったし、今までにない発想で多くの人の関心は得たと思う。
そんな企画に関われたことは本当に光栄だし、その中で自分が出来たこともあったと思う。

しかし、最後にやっぱり少し後悔が残るわけである。
それは、自分が何故そこにいたのか?何を期待されていたのか?ということをしっかりと自分の中で消化して、その役割を担えなかったことに対しての後悔だった。

世界学生環境サミットin京都という企画に対する後悔とはまた全く質の違う後悔である。サミットでの後悔は、自分の能力の未熟さに対するものとそれを克服出来なかった、当時の自分のキャパシティーのなさに対する後悔であったように思う。そこでは、俺は期待された役割を担おうという意識はなく、自分のやりたいことを如何に実現しようか?という視点しかなかった。

しかし今回は、何かを期待されて団体に参加したわけである。何かを期待される=自分には何かが出来るということである。それを残せなかった。

でもサミットから学んだことがある。
後悔だけは何も生み出さないということ。責任感を感じることは必要だし、ある程度であれば自分を批判することも、否定することも必要だと思う。でも、後悔するなら、次何かしてみろ!と考えること。次ならその後悔をしないために自分はどんな工夫が出来るかと考えることが必要。

今回のことで見えて来た自分の能力を整理してみよう。徒然なるままに。

人当たりの良さ…誰とでも笑顔で話し、良い印象を与えることが出来る
事前リサーチの不足…相手の情報を考慮するという視点に欠ける
言葉使い…的を得る発言をすることはあるが、言い方にとげがありすぎる
文才…中途半端 ないとは言い切れないが、頭の中に浮かぶ素晴らしい文章を実際に書いてみると思い通りに書けない
自分の役割認識…リーダー/メンバーに対してどう接するかを考えることが出来た
冷静さ…イベント当日は落ち着いているつもりが、周りを不安にさせていた
周りを信頼すること…まだまだサミットの教訓は活かせていない。情報を溜め込むくせあり

とりあえず今日のところはこんな感じ。

本当は就活に関して、というより自己分析に関して書こうと思ったのに…
やっぱり一つの話題をしっかりと見据えて、そこからぶれないように文章を書くのは少し苦手。

2009年3月26日木曜日

第一希望

さて、今日は自分の夢について書いてみようと思う。

俺は、「日本の田舎を元気に!」したい。
それは、今の世の中が、次に来るべき世界のいめーじを見失っているからである。

つまり、資本主義という一つの社会システムが限界を迎えたということ。それにとって変わる次なる社会システムが今のところ存在しないということ。

では、次の世界はどこに向かって”進化”すれば良いのだろうか?
俺が思うに、答えはパトリオットである。
日本語に訳すとするなら、郷土愛…なのかな?
顔の見える人たちとの人間的繋がりである。
うむ、そうである。

例えば、地産地消なんてその最たるもの。
俺は地産地消を農産物だけだとは思っていない。
工業製品でも、もしかしたら、ハイテク製品でも可能なのかもしれない。
グローバル化という現象を否定するつもりもないし、アンチグローバル化でもない。でも、世界中で必要とされないものが巡り巡る世界よりも、必要なものが必要とする人々に、身近で巡る世界を創り上げたい。
誰々さんが作った○○。
そんな感じの、顔の見える関係で繋がった人々が住む空間が創り出せたなら、そしたら、生活の質を追及することが幸せと認識される価値観が広がっていくんじゃないだろうか。

まだまだ上手く説明出来ないし、理論の破綻もありあり。
悔しい。
悔しい。

でも、これが俺が大学に入り、いやいやその前から色々経験してきて行き着いたかすかな光。
身近な世界が幸せであることを実感することなしに世界平和を語るなんて、言語道断だし、出来ない。

土を耕し、作物を得る喜びみたいなものを実体験でなくとも理解出来る。そんな世の中を俺は実現したい。

駄目だ。
支離滅裂。
また書き直そう。

商社のESでこんな感じのことを書こうと思うが…
いかんせんまとまらない。

さぁ格闘だ。

地域活性化センターなんてもんがあるそうだ
こちら

2009年3月22日日曜日

京都銭湯コレクション2009

昨日は、
【銭湯で風呂上がりの一杯を】

という京都銭湯コレクション2009の試飲会本番だった。
というか今日も本番だ。

つまり、自分の担当する銭湯が本番だったということ。
今でもメッセージ写真の展示はしている。
なので、キャンペーン自体はずっと続いているわけだ。

本当に色んな人がいる。
でも色んな人と話しをしていて、やっぱり気付いたことがある。

寂しいのだ。
みんな誰か、気兼ねなく話せる人を探している。
話しを聞いてもらいたくて、話しをしたくて…

皆が忙しい。
皆が色んな情報の波に揺られて、何を信じて良いかわからんくなってる。

俺はそんな時、
年寄りの、
俺よりも感受性が豊かな人の、
俺よりも年下の、
俺よりももっと寂しい想いをしてる、

そんな人たちの話しを聞けば良いと思うのだ。

そしてそれはお酒が入らないと出来ないことであるならば、大いにそうすれば良いのだ。
お風呂に入って、衣服と一緒に恥ずかしさも脱ぎさってしまえば良いのだ。
と思う。

最近は、お風呂に入るという行為がすごくプライベートなものとして扱われている。
これはどこの文化だろうか。
西欧の文化だろうか?
でも日本も昔は一人で入っていたように思うし、
ヨーロッパにも公衆浴場はある。
実際俺もハンガリーでは公衆温泉に入って来た。

う〜む。
はて、お風呂のprivatizationとは難しい問題だ。
もし、お風呂が戦前/戦後の日本のようにパブリックな場所になれば、もっと皆自分の殻を破る方法を小さい頃に学ぶ機会が出来るんじゃないかな。

そしたら社会に蔓延する「寂しさ」も少しは和らぐんじゃないかな…

そんなことを考えた、昨日の試飲会だだった。

さて今日は、サミット大同窓会。
http://st-summit.doshisha.ac.jp/kyoto/
皆に何を伝えようか。
何をプレゼントしようか。

楽しみである。

ちなみに風呂の文化
http://iroha-japan.net/iroha/B06_custom/10_furo.html
一応wikiも
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%AD%E6%B9%AF

2009年3月9日月曜日

明日はGD

明日はGDである。
今日はDTであった。

まだまだ自分は子どもだと思う。
この前の面接では、会社側の考えなど無視して自分の理想を思う存分語ってしまった。

俺はそれで良いと思っている。
内定をもらうことが目的でないなら。
ことをなすことが人生の目的であれば。

でもことをなすことすら叶わないのではないかと思う。
自分の弱さから目をそらすことを覚えすぎた。
自分の弱さに言い訳をするずる賢さを身につけすぎた。

明日にも提出しなければいけないものが山のようにある。
明日までに頭に入れておかなければならない知識が山のようにある。

でも”やらなければいけないこと”にはもううんざりだ。
寝てしまったらそれでも良い。
体が動かなければそれでも良い。
遅れたのならそれでも良い。

何が重要かぐらいは自分で決めれる。
そんな生き方をしたい。

旨いフレンチを食ったときの幸せ。
俺はそのために生きる道を選んでも良いのかもしれない。