2009年6月28日日曜日

昨日の夜に書いた日記です。

昨日書いたから、今日は違うことを思ってるかもw
そして、ドラマチックに書きたかった俺の気持ちを受け取ってください!!!!

もちろんこれは第一弾。

↓☆☆↓
昨年、私たちは少々の興奮と、多大な失意の中でサミットの終わりを迎えた。
世界学生環境サミットin京都という、この世界で初めての取り組みが、私たちにとって何であったか?それを全て整理出来ずに、自分たちが出来なかったことにばかり目を向けるスタッフの姿がそこにはあった。

実際全てのスタッフがそのように感じていたかどうかは定かではない。もしかすると、実行委員の中の数人・数十人は非常に意義のある取り組みであったと胸を張っていたかもしれない。少なくとも私は、自分のちっぽけな自信を打ち砕かれ、失意に沈んでいた。
自らの英語の出来なさ。自らの組織運営の稚拙さ。自らの無責任さ。自らの思いの至らなさ。
全てが自分自身にとって今までの経験を超える、今までの経験では計り知れない衝撃であった。

私たちスタッフは、世界中から集まる学生を満足させることが出来ただろうか?彼らにとって意味のあるサミットが出来たのだろうか?そんなことばかりを心配していた。

サミットが終わってからのこの一年間で、私は誰一人として、本当の意味で、心からサミットの意義を深く胸に刻んでいた人はいないのではないだろうか。
そして私は、サミットのメンバーに会う度に少しの不安と懐かしさを常に胸に抱いていた。自分が彼らに出来たこと、出来なかったことを考える毎日で、逃げ出したくなることも一度や二度ではなかった。

自 分が足りない部分を、自分が至らない能力を補ってくれる人が数えられない程存在して、(こんな風に考えていることが既にものすごく傲慢なことは理解してい るが許して欲しい)彼らの御陰で何とか3日間という、本来は短いはずの自分にとっては永遠にも感じられるイベントが無事に終わったのである。

思い出話をしたかったわけではない。
私は今カナダはヴィクトリアにいる。ヴィクトリア大学の学生寮で自分専用の部屋を与えられ、全てが暖かい歓迎で満たされた土地にいる。

心から声を大にして叫びたいことが胸にみなぎっている。

「京都サミットを成功に導いてくれた皆様!!
僕たちがどんな風にあのサミットを評価していようとも、
僕たちがどんなにあのサミットのことで苦しめられようとも、
今このヴィクトリアサミットにいる全ての学生が、僕たちが成し遂げたことを心からの感謝を持って、評価してくれています。」

私たちはどんな形であれ、このサミットの土台を作り上げたのである。今はまだ小さな波を引き起こしたに過ぎない。しかしながら、その波はここヴィクトリアで少しずつ、少しずつ大きな波に進化しようとしている。
私は参加しているほとんど全ての学生に、私たちがやったことのすごさ、意義を指摘される。
心の底から感謝される。

私はず~っと、ず~っと、自分たちが起こす小さな、本当に小さな、胎児の心音のような衝撃を世界に示すことが出来れば、物事が非常に時間がかかろうとも変化して行く!という確信を持っていたし、それが6ヶ月もの間、私をサミットに引きつけた。
その小さな衝撃が、世界の学生に認められ、この衝撃はどんどんと大きくなっていく一方なのである。

上 手く文章に出来ないことが、煩わしくて仕方ないのだが、ここヴィクトリアに来て本当に良かった。出来ることなら、京都サミットを成功に導いた全ての学生に このサミットに参加して欲しかった。自分たちが大きな苦労をして産み落としたものが世界にとってどれほど意味のあることなのか。そしてそれが如何に評価を 得ているのか。

どうにか動くヴィジュアルを持って、私の同僚にこの感動を届けたい。しばし待たれよ。

今この瞬間、世界の学生達は思い思いのことをしている。パブで飲み明かすものもいれば、時差からくる疲れで自らの睡眠欲に抗えないものもいる。感動を胸に無心でキーボードを叩いている、私のような学生も恐らく存在しているであろう。

10時間以上ものフライトを経て、私たちが今目にしているものは、恐らく今後の世界にとって必要不可欠な取り組みなのである。
そ れだけにとどまらず、多くの先人達がなしとげてきたように、何世代にも渡る取り組みの加速期なのだ。スタートは昨年私たちが京都で切った。これからこの取 り組みは、様々な危機・問題・課題に見舞われるであろう。そして言うまでもなく、それ以上の素晴らしい瞬間を数多く生み出すであろう。もしかすると、この 取り組みのせいで人生が変わってしまう学生が世界中で生まれるかもしれない。

そのような取り組みであることをこのたった2日間ではあるが、存分に感じることが出来ている。
ここにいれることの幸せ、驚き、偶然。全てに感謝しないではいられない。


2009年6月16日火曜日

行ってきます。

というわけで、

24日からカナダはヴィクトリアです。

う〜ん。
色んなことが整理出来てないけど、
今から頑張って整理します。

唯一の懸念事項は

英語。

うん、やっぱり不安だ。

行く前と行った後、報告します。

2009年6月5日金曜日

僕らはみんな生きている〜










生物と無生物のあいだ
福岡伸一

生物とは何か?
筆者はまず生物とは自己複製を繰り返すものであるという、生物学で一般的に与えられている定義を生物に対して与えるところからこの物語を始める。

最終的に筆者が行き着く生物の定義はしかしながら、始めのものとはかなり異なる。というのも、筆者は自分自身の実験経験、それはマウスを使った膵臓の中で消化酵素を創り出す細胞に関わるものであるのだが、を通して生物の一回性というものに行き着くからである。

生物とは不可逆な時間の流れの中に自己複製を行うものであるというのが筆者の主張である。自己複製を繰り返すだけでは、生物の定義として十分ではないのである。

物語の最後で、筆者が生物と機械を比べる。
テレビの中のあるトランジスタをはずしてみたら、音声が聞こえなくなった。これは用意に想像出来る原因と結果の関係である。
生物(この物語の中ではマウス)の場合これと同じことが観察出来るだろうか?
つまり、生物の中にあるある特定の働きをすると考えられている細胞を遺伝子操作で完全に破壊してしまう。これをノックアウトという。そういえば一時期、ノックアウトメダカというのが紙面をにぎわせたことがあった気がする。
仮にその細胞が体の中から老廃物を吐き出すのに必要不可欠と考えられる細胞だったとしよう。であるならばこのノックアウトによって生まれたマウスは、理論上は老廃物を体外に排泄することが出来ずに、死に至るはずである。

しかしながら、実験ではそうならなかった。何故か?
筆者はその理由を、生物というものの定義へと導いて行く。
ノックアウトマウスの中で起こったことは、一回性の生物の時間の流れの中で、その失われた細胞の役割を代替する細胞が生成されたということだったのである。(間違ってないよね?)

本来なければならない細胞。しかし生物の神秘は、その細胞を不可逆な時間の中で埋め合わせてしまったのである。

長々と文章を書いて来たが、要するに生物とは単に自己複製を繰り返すという定義だけでは表現出来ない、複雑系であるということだ。自己複製に更に、時間の一回性というものが追加されて初めて生物が生物たる。

この本の細かいところは分からなかった。
細胞の話しとか、DNAのオハナシとか……
そんな世界に入ってしまった時にはちょっと……どころか大分頭が混乱してしまった。

だけど、読了した今、何故か厳かな気持ちになっている。
マウスを多用する生物学という学問分野に、「命を軽んじる!」というような単純な批判は出来ない。
こうした実験の繰り返しが、生命の神秘を一つずつ解明し、やがては多くの生命を救うことになるのだろう。
しかしながら同時に、命を複製可能なものであるとする間違った解釈に導く場合もあるのだろう。

話しが逸れてしまったけど、この本を読んで自分が生きてることの不思議を思わずにはいられなかった。
数々の軌跡(必然?)の結果として一人の人間がこの世の中に存在しているのだ。

なんか………死にたいとかって思ってる人にこの本読んでもらいたいかも。

雑感でした。

ってか今日思った。
改めて。
俺の周りすごい人ばっかりじゃん。
なんだこれ。
なんだこの幸せ。